アスリートインタビュー

“3年間出場時間0分”から“3年間全試合フル出場”を掴んだ男

プロサッカー選手の平均寿命は『2~3年』、平均引退年齢は『25〜26歳』とよく言われているが、今年で40歳を迎え、プロ22年目というそのような平均選手寿命の数字を遥かに上回るベテランGK(ゴールキーパー)がいる。

アルビレックス新潟所属の野澤洋輔選手だ。

普通、年齢を重ねるごとに体力・技術は落ちていくものだと思うが、野澤選手は「むしろ年々良くなっている。GKを極めれている。」と話す。

では一体、そのような年齢までプロとしてプレーすることができている理由はなんのか?

その理由を野澤選手にこれまでのサッカー人生の裏側と共に語っていただいた。

【PROFILE】

野澤洋輔(のざわ・ようすけ)


アルビレックス新潟所属のプロサッカー選手。1979年11月9日生まれ、静岡県静岡市出身。ポジションはゴールキーパー(GK)。清水エスパルスU-18からトップチームに昇格し、プロサッカー選手のキャリアをスタートさせる。その後はアルビレックス新潟~湘南ベルマーレ~松本山雅FC~アルビレックス新潟シンガポールという数々のチームで活躍し、プロ22年目の40歳を迎える今年から再び、アルビレックス新潟でJリーグ復帰を果たす。

GKになった理由。「もしかしたら、バスケ選手だったかもしれない。」

ーー野澤選手は現在、GKをやられていますが、サッカーを始めた時から、GKだったんでしょうか?

野澤:僕がサッカーを始めたのは小学校2年生の時なんですけど、実は最初はFWをしていて。

ーー最初はFWだったんですね!?

野澤:はい。それで小学5年生の時に静岡市選抜にFWでセレクションを受けたんですけど、GKの人数が足りない試合があって、その1試合だけGKをやったら、FWではなくGKで受かってしまって(笑)。

最初は断ったんですけど、「でもやっぱりGKやってみろ」と当時の選抜のコーチに言われたので、仕方なく始めたのがGKになったきっかけですね。

ーーでは、そのコーチがもし野澤選手のGKの才能に気づかず、GKをやってみろと言っていなかったら、、、。

野澤:そうですね。今の僕はなかったと思います。

ーープロサッカー選手になりたいと思ったのはいつ頃でしょうか?

野澤:中学から高校に上がるタイミングで清水エスパルスユースから声をかけてもらってそこでサッカーをしていたんですけど、僕はサッカーと同時に父が大学生まで本格的にバスケをしていたという影響もあって中学校でもバスケ部に所属し、高校1年生の時はサッカーとバスケの両方をやっていました。どちらかというとバスケの方が得意でしたし、好きでした(笑)。ですが、高校2年生になる時に自分のなかで「そろそろどちらかに絞らないとな。このままじゃどっちも中途半端になるな」と思い、そこで初めてプロサッカー選手になろう決断し、高校2年生からはサッカー1本に絞りました。

ーーサッカーとバスケで悩んだとき、サッカーの道を選んだ決め手は?

野澤:僕が中学1年生の時にJリーグが開幕したんですけど、自分もあんな華やかなプロの世界でプレーしたいなと思ったからです。開幕戦の東京ヴェルディと横浜Fマリノスの試合をテレビで見て、「超満員の中でこの人たちすげーな。」と思ったのは今でもよく覚えていますね。バスケの方はまだbjリーグ(Bリーグの前身)っていうバスケのプロリーグがまだ存在していなかったので、サッカーの道に進もうと高校2年のタイミングで決めましたね。

ーーでは、もしその時、バスケのプロリーグが存在していたら?

野澤:おそらくバスケの道に進んでいたでしょうね。サッカーも好きでしたけど、バスケの方がより魅力的だったし、得意だったので。なので、その時にバスケのプロリーグがあったら、今頃僕はプロバスケットボール選手でしたね(笑)。

2年間で1試合も出場できず契約満了に

ーーでは、高校2年生からサッカー1本に絞って、清水エスパルスユースでプレーしトップチームに昇格して、プロサッカー選手になったわけですね。プロになれた時の気持ちは?

野澤:嬉しかったですけど、それよりも「やっぱりね」という感じの方が強かったですかね。なんとなく、プロになれるだろうと思っていましたから。特に根拠とかないですが(笑)。

ーープロの世界はどうでしたか?

野澤:そのような甘い気持ちでプロの世界に飛び込んだので、当然試合に出られるわけもなく、2年で清水エスパルスを契約満了になりました。

ーー1試合も出場できなかったんですか?

野澤:はい。1試合も出場できませんでした。

ーー契約満了になった時はどのような気持ちでしたか?

野澤:「当然だよね、自業自得だよね」っていう思いでしたかね。

ーー「悔しい」とか「もっと真面目に取り組んでおけばよかった」というような後悔みたいな気持ちはなかったのでしょうか?

野澤:僕はあんまり過去のことで後悔しないタイプなので、本当に「当然だよね。しょうがないよね。」という感じで、「じゃあ次どうしようか。」ともう切り替えていましたね。

契約満了になった僕を拾ってくれたアルビレックス新潟

ーー契約満了になってからはどうしたのでしょうか?

野澤:1試合も出場できなかったので、他のチームが取ってくれるわけもないと思っていました。なので、まだ20歳だったので、プロは辞めて大学に行こうかなと思ってたんですよね。ですけど、たまたまアルビレックス新潟が僕のことを獲得してくれることになって。もう一度、プロで戦えるチャンスをもらうことができるようになりました。

ーー1試合も出場できなかったのに、なぜ、アルビレックス新潟は野澤選手のことを獲得してくれたのでしょうか?

野澤:当時、清水に所属していた服部さんというアジアの虎と呼ばれていた選手が新潟に移籍することになったんですよね。そしたら、その時たまたま新潟がゴールキーパーを1人探しているとなって、服部さんの移籍の際に僕を新潟の永井監督(当時の新潟の監督)に推してくれる方がいて、新潟が獲得してくれることになりました。

ーーもう一度、プロで戦えるチャンスを掴んだということですね。 

野澤:はい。本当に運がよく、ラッキーとしかいいようがありません。もう辞めようと思ってましたからね。この時、契約満了になった僕を新潟に拾ってもらえてなかったら、今の僕はありません。僕を推してくれた方もそうですし、新潟にも感謝しかないです。

再スタートするが、またしても、、、

ーー新潟に移籍したのが2000年、21歳の年。新潟に移籍してまたプロとして再スタートを切れたわけですが、清水で試合に出られなかった反省を活かして何か野澤選手の中で変えて臨んだのでしょうか?

野澤:より試合に出たいという強い気持ちを持って日々の練習に取り組みました。ですが、その年も1試合も出場することができませんでした。しかも、唯一僕だけが出れませんでした。他の選手は皆、少なからず1~2試合は出場したのに。

ーーまた大きな挫折を味わったというわけですね。

野澤:1試合も出場できませんでしたが、僕の中で「挫折」という感覚はありませんでした。なぜなら、この時は本当の意味での「挫折」をまだ知らなかったので、次に切り替えようという気持ちしかありませんでした。

プロ4年目にして突然来たチャンス

ーーなるほど。では、そういった気持ちで臨んだ2001年、22歳、プロ4年目のシーズンはどうでしたか?

野澤:今までは出場することすらできなければ、ベンチにも入ることができなかったんですが、プロ4年目のシーズンはようやく試合に絡めるぐらいの実力もついてきて、開幕直前までベンチ入りするぐらいになっていました。けど、開幕直前で一番手だったゴールキーパーの選手が怪我をしてしまい、僕が開幕戦に出場することになったんです。プロ初出場の試合が開幕戦。しかも、4年目にしてです。

ーー相当、緊張されたんじゃないでしょうか?

野澤:緊張しましたね。緊張しすぎてインナーを裏表反対に着て、周りからいじられたぐらいですからね(笑)

ーー監督からはどのような言葉をかけられたのでしょうか?

野澤:当時の監督は反町さん(現、松本山雅FC監督)だったんですけど、反町さんは毎試合、試合前のロッカールームで選手一人一人に声をかけるんですよね。その時に僕が言われたのは「失点ゼロに抑えてこい」っていう一言でした。

ーーそのような言葉で送りだされて、開幕戦の結果はどうでしたか?

野澤:結果は引き分けでしたけど、自分自身のパフォーマンスはよかったです。

ーー3年間1試合も出場しておらず、突然、開幕戦直前にチャンスが訪れ、自身のパフォーマンスを発揮できた要因はなんでしょうか?また、どのような心持ちで試合に臨んだのでしょうか?

野澤:試合に対しては緊張もありましたが集中して臨むことができました。このチャンスを活かせたのも、当時メンバーの中で最年少だった僕に声をかけ助けてくれたチームメイトの存在が大きかったと思っています。

ーー開幕戦以降のパフォーマンスはどうでしたか?

野澤:開幕戦に初出場して勝利することができて以降は3年間全試合にフル出場することができました。

ーー3年間全試合フル出場ですか!3年間も出場し続けられた理由はなんでしょうか?

3年間全試合フル出場できた理由

ーー開幕戦以降のパフォーマンスはどうでしたか?

野澤:開幕戦に初出場して勝利することができて以降は3年間全試合にフル出場することができました。

ーー3年間全試合フル出場ですか!3年間も出場し続けられた理由はなんでしょうか?

野澤:やっと試合に出場できて、さらにその時に初勝利もして、初めてサッカーの楽しさや喜びみたいなものを味わうことができたからですかね。それまでは試合に勝ったことすらなければ、出たことすらなかったので。

ーー長い長いトンネルを走り続けて、やっとの思いで抜けだすことができたからこそですね。

野澤:そうですね。やっと手にできたあの喜びをもう一度味わいたいと思いながら、1回1回の練習に取り組み、1つ1つの試合を戦かった結果、3年間出場し続けられたんだと思います。そして、新潟に来て4年目のシーズンではJ1昇格という結果も残せました。

ーーただ試合に出るだけでなく、チームの力にもなれたということですね。

野澤:けどこれは僕たち選手だけの力じゃなくて、新潟というクラブをずっと支えてくださったサポーターの方々のおかげの方が大きいんです。最初、僕が新潟に移籍してきた時はまだビッグスワンもなく、陸上競技場で2000人ほどのお客さんしかいなかったんです。ですがそれが共に勝ちを積み重ねていったことによって段々とお客さんやサポーターが増え、気づけばJ2最終節の昇格が懸かった試合には今でも破られていない来場者数記録で4万人以上の方々がビッグスワンまで駆けつけてくれました。

ーー4万人ですか。

野澤:あの時のピッチから見た景色は今でも忘れられません。そして4万人の後押しもあって、その試合に勝利し、J1に昇格がすることができました。

サッカー人生初の挫折「周りのみんなが敵に見えてしまう。」

ーー初のJ1のシーズンはどうでしたか?

野澤:新潟に来て5年目のシーズン、2004年ですね。自分はあまり挫折というものを感じない人間なんですけど、そのシーズンで初めて「挫折」というものを味わいました。

ーーどのような挫折ですか?

野澤:試合の前日練習で膝の内側側副靭帯を軽く伸ばして、2週間程休む怪我をしてしまったんですよね。ですけど僕自身、大きな怪我でもなかったので、すぐに復帰してまた試合に出られるだろうと思って復帰したんですけど、3か月ぐらい出られませんでした。その時に初めて「試合に出れないってこんなにも辛くて、苦しいのか」って思いましたね。

ーー1試合も出れなかった最初の3年間の時期とこの怪我をして試合に出れなかった時期とでは悔しさが違ったということですね?

野澤:はい。この時は試合に出る喜びを味わっていたからこそ、試合に出れないことがすごく悔しかったです。その悔しさを抑えなきゃいけないとわかっているのに、抑えれない自分がいて。そういう時って周りの皆が敵に見えてしまうんです。

ーー周りの皆が敵に見えてしまう。

野澤:そうですね。敵というか・・・例えば、心配してくれる親に対しても「うるさいな」と思ってしまったり。サポーターに対しても「試合に出てない自分はどう見えるんだろう」とネガティブなことを思ったりもしました。グラウンドでも試合に出れない日々の練習はメンタル的にもきつかったですが、そうは思っても歯を食いしばり明るく振る舞うようにしてました。全ては自分の内側から作られているものだと分かっていましたから。

ーーGKというポジションは10人出場できるフィールドプレーヤーと違って、1枠を争うポジションなので、一度出られなくなってしまうと取り返すのに難しいポジションではありますよね。

野澤:そうですね。ですが、プロになってからの最初の3年間試合に出ることができず、開幕直前でいきなりチャンスがきたように、今度もまた、「今は試合に出れなくても、いつか必ずチャンスが来る」と信じていたので、その時にまたチャンスを掴むために、やれることをただひたすらにやり続けました。

待って待って待った再び掴んだチャンスは凱旋復興試合

ーーチャンスを掴むためにやれることひたすらにやって待った結果どうでしたか?

野澤:チャンスが来ました。僕が試合に出られなかった時期に2004年10月23日に新潟中越地震が起きたんですよね。高速道路は寸断され、ビッグスワン(新潟のホームスタジアム)でもゲームができなくなり、国立でホームの試合を何試合かしました。そういう時こそ、チームが勝って新潟の人たちに元気を与えたいという気持ちがありましたけど、自分は試合に出れてないし、チームも勝てない日々が続きました。ですけど、やっとビッグスワンに戻ってホームゲームができるとなったタイミングの試合で僕がスタメンに選ばれたんですよね。

ーー復興の兆しとなるビッグスワンでの凱旋復興試合で再びチャンスが訪れたということですね。

野澤:はい。久々の試合、久々のホームゲーム、地震が起きて新潟全体がまだ少し元気のなかったこともあり、スタメンが分かった時には嬉しさと使命感と気合が入り混じってました。

ーー選ばれた要因はなんだったんでしょうか?

野澤:それは僕にはわからないですが、チームがなかなか勝てていないということもありましたし、あとは僕のことを見ていてくれていたのかもしれませんね。

ーー再び訪れたチャンスを掴むことはできましか?

野澤:その凱旋復興試合でFC東京に勝つことができました。この1勝はただの1勝ではなく自分にとっても新潟にとっても大きな1勝で、試合に勝ったことで「一つになってまた頑張ろうよ!」って新潟のみんなを勇気付けられたことが何よりも嬉しかったです。

今年で40歳。この歳になってもプロであり続けられる理由

ーー野澤選手は今年で40歳になりますが、そのような年齢になってもプロで戦い続けられている秘訣はなんでしょうか?

野澤:若い時のトレーニングが厳しかったんですけど、そのトレーニングによって体が鍛えられたということですかね。現在、新潟で指導していただいているGKコーチは20代の時と同じGKコーチで、今も当時と同様、厳しいトレーニング積み重ねてるんですけど、体のキレは上がってきています。なので、厳しいトレーニングを積むことが秘訣になりますかね。そして、あとはそのような厳しいトレーニングで蓄積した疲れを取るための体のケアですかね。

ーー実際にどのようなことを実践されているんでしょうか?

野澤:疲れを取るのに一番大切なのは睡眠だと僕は思ってるので、睡眠の質にはこだわっています。特にマットレスや枕、布団にこだわって質の高い睡眠をして、疲労を抜き少しでも早く回復できるようにしています。枕とか布団とか合わないと、翌朝、疲れが残ってしまうんですよね。

ーーそんなピッチ外から体のケアを入念にされている野澤選手にも現在、TENTIAL ZEROというコンディショニング・インソールを履いていただいていますが、使用してみていかがでしょうか?

野澤:僕は2児の父親でもあるので、よく子供と外に遊びに出歩くことが多いんですけど、いつも遊び終わって帰ってきた時に足の疲労感を感じていました。ですが、【TENTIAL ZERO】を履いてこの前、ザリガニ釣りに行ったり、走り回ったりしたんですけど、今まで感じていた足の疲労感はほとんどないなと思ったのが率直な感想です。

ーーどんな人にオススメしたいですか?

野澤:アスリートのオフの日にオススメしたいですね。

ーーそれはなぜですか?

野澤:アスリートは時には競技から離れてONとOFFを切り替えることが大切だと思います。ですが、オフってどこか遊びに出かけたり、買い物に出かけたりするので気づくと歩く場面が多くて、オフは心身共にリフレッシュさせるためのものなのに「心は休まっても帰ってきたら身体は疲れてる」って感じる選手、結構多いんじゃないかと思うんですよね。なので、その際に【TENTIAL ZERO】を履いてオフを過ごせば、足の疲労も気にせず、オフを満喫できるんじゃないかと思います。

ーーインソールを履く前に期待感はありましたか?

野澤:いえ、最初は「インソールなんて履いてもそんなに効果ないだろう」って思ってました。ですが、騙されたと思って試しに履いてみて実際に効果を感じることができたので、足に何かしら課題を抱えている人やインソール履いたことないという人は試しに履いてみてもいいかもしれないですね。


4万人のビッグスワンの中でもう一度プレーすること

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ーー今年で40歳になりますが、引退する時はどういう時でしょうか?

野澤:引退のことは全く考えてないし、考えられない。体はまだまだ動く、むしろ年々、動くようになってきている。今しかやれないことひたすらにやり続けたいですね。

ーー最後に今のサッカー選手としての夢を教えてください。

野澤:4万人のビッグスワンの中でもう一度プレーすることです。J1昇格が懸かった試合で味わえた4万人のビッグスワンの中でプレーしたあの経験は本当に今でも忘れられません。なので、次は今でも破られてない来場者記録を超えるサポーターの方々にビッグスワンまで来ていただいて、まだあの雰囲気を味わったことのないサポーターの方と今の選手たちと一緒にあの雰囲気をもう一度、味わいたいです。


(取材・文=浅岡大貴)

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